手探り介護模様

耳が遠くなってしまった父に足か不自由な母。パーキンソン病、などという話まで出て、
実家は明らかに「家」としての機能を失いつつあった。だが、私にとって親との関りは、
やはりどこか煩わしいもので、同居に踏み切る決断も後手に回ってしまい、息子として
両親にとっての安全な生活環境を整える、その責任を結局は果たせなかったことになる。

  
・食事の支度
・給水・食事の介助
・着替え介助  
・トイレ介助 

・タオルでの身体洗浄

・床擦れ防止体位調整

 
介護となれば当たり前のことばかりだが、突然の母親の身体介助に戸惑いを感じた。
初めてアルバイトを体験した時のように、どうにも要領を得ず右往左往としていた。
 
最も難儀だったのがベッドから出る動作だった。
どうしも右足の可動に影響が及び「痛いっ!」と絞り出す悲鳴と共に、渾身の力で
私の腕を握り絞める。余程耐え難いのか、一人でに涙が零れていることさえあった。
耳に刺さる悲痛な声は聞くに堪えず、慣れるということがなかった。
 
「痛み止めを追加して欲しい」とせがまれる。
安静にさえしていれば苦痛も小康状態。薬の一時的な感覚麻痺が無理な動きに繋がり、
傷の悪化させてしまえば元も子もない。薬の服用は処方の範囲に止めようと説得した。
 
ベッドに座り、足湯をしているとケアマネージャーに言うと、訪問入浴を薦められた。
浴槽を持ち込むため、隣室で寝起きする私の生活具をいちいち整頓し直す必要が出る。
どうせ始終張り付いているのだから、自分で入浴させられないものかと、やってみた。
 
ベッド上で出来る限り脱衣させ、浴室まで運ぶことになるが、
母は身長15㎝、骨折以前の体重45㎏と元々が小柄な上、
この時点で、体重が30㎏台半ばにまで落ち込んでいたこと。
実家の深い浴槽の縁と座椅子の座面を同じ高さにできたこと。
そこに座れば、少しの横移動で湯船に浸すことが出来たこと。
これらの要素があって、自分一人での入浴介助が可能になり、
回を重ねる度に手順のコツも掴め、この形が続いていくことになる。 
母が転倒骨折で救急搬送されてから、1年10か月後のことだった。
 
       夜景から夜景へ架かる霧の橋