大きな災害や事件・事故に自分や自分の家族が巻き込まれた人達への取材において、
「あの時から時間が止まっている」そんなコメントを幾度も耳にしてきた気がする。
『全く同じケースなどはないはずなのに、皆、口を揃え、同じこと言うものだ』と、
そんな感想でコメントを聞いていたこともあったが、自分自身がその当事者となり、
その心境はと聞かれると「あの時から、時間が止まった」これ以外の言葉が見つからない。
トラブルの渦中にある者は、内容の深刻さに各々違いがあっても問題の解決・払拭に相当量の
エネルギーを割かれることになる。私自身も同様に、寝ても醒めてもそればかり考えてしまう
一大事と化していた。
あまり思い詰めてばかりもいけないと、例えば、病院に付き添う道中、紅葉や桜の季節になれば
車窓越しに景色も愛でるし、外食が困難でも、たまの贅沢として折詰など買い求めることもある。
しかしトラブルの渦中にあっては、それらを味わったり鑑賞をするに五感の全てや神経・意識を
集中させることは出来ない。
意識の先頭には、常に灰色の雲で覆われた<災い>が陣取り、心奪われる素敵な物や場面の
提供を受けたとしても、どうにも上の空で堪能しきれず、瑞々しい季節感や臨場感を伴った
体験とはならない。だから辿ってみても、味気のない色あせた記憶でしか再現されないのだ。
そして、それがおのずと「時間が止まる」という表現に繋がっていたのだと、この歳になり、
私は理解することになった。
6月、ケアマネージャーに利用再開の希望を伝えた。ケアマネージャーにおいても、
4月より前任の移動で担当が替わり、顔を合わせるのもまだ数回目といったところ。
これまでの経緯を含め前任から引き継ぎを受け、母から無念の思いを聞かされても、
じっと聞きはするが、前任同様、自分から詳しく話を聞き直すといったことはない。
私達もまた、止められた時間を進め直すには、一連のトラブルについて何らかの形で
溜飲を下げる必要がある。だが、新任のケアマネージャーに「その心情を察しろ」と
言ってみても、また無理が出るだけだろうと思われた。
「主治医からリハビリの再開を急かされている」と利用再開を切り出したのだが、
合点がいかないのであろう、ケアマネージャーからは訝しげに質問が返って来た。
「リハビリ特化なら、少し遠くても別の所が良いのでは」とか、
「健康保険での訪問リハビリという選択もあるのですよ」とか、
「直接、お母さんからご希望やお話も伺いたいのですが」など、
何をどう間違えば、そんな方針に辿り着くのかといった具合だ。
「母は昨晩、上手く寝付けずまだ眠っている、残念ながら会ってもらうことができないが、
昨年9月、作成された通所介護計画と現在の状態と比較し、今後の助言を求めたいのだ」
そもそも母には何の断りもなく始めている話で、もっともらしい再開理由も方便であるが、
私は両親の呵責に苛まれることなども全くなく、訝しがるケアマネージャーを押し切った。
長い貨車つくつくほうし負けにけり