自分が通念としてきた道徳観や善悪の基準と、実際の法律の解釈はまた別物。
日を改めての法律相談、そのことを、つくづくと思い知らされることになる。
相手の不注意により障害を負わされたとする(不法行為)の立証が困難でも、
契約を正しく履行しない(債務不履行)に絞れば、示せる根拠は何なりある。
その事実経過を説明できれば、契約解除の無効にも道筋をつけていけるはず。
と、私は考えていた。だが、それすらも「難しい」と弁護士は言うのだ。
「全く非はない」と先方が宣言し、こちらが「それは受け入れられない」と反論した以上、
先方にとって私達は「不信」な存在。信頼を前提にしての契約関係が維持できなくなった。
そのロジックについては、法的に成り立っているのだと。
私達が苦情を申し立てた必然性も以降の経緯も、関連を切り離して考えなければならない。
どう角度を変えたところで必要なことは「全く非はない」を覆す医学的見地に基づく立証。
結局はこの問題、医学的立証なくして、相手を交渉の席に着かせることはできない、と…。
「私なら、この材料で戦おうとは思わない」弁護士の立場から見ると、そういうことらしい。
「あなたがこの立場であっても、そう言って諦めるか?」そう問い返す私に対し、弁護士は
「勝つ見通しを持てない弁護士と裁判を戦っても、意味のある結果にはならない」と答える。
挙句「そもそもにおいて」と話も戻されてしまうのだが、
債務不履行だけに争点を絞り、たとえ勝訴したとして、どれ程の賠償を期待できるのか。
契約解除の無効が叶えば、このデイセンターへの通所を本当に再開させるつもりなのか。
採算も勝敗も度外視し、後腐れを残さない終焉の有り方として、裁判所で訴えることに
固執しているのなら、別に弁護士などに代理を頼まずとも一人で好きにやればよかろう。
結論はそういうことのようだ。
『その裁判所はこの法律事務所とは、目と鼻の先にあるのだが…』考えてはみるものの、
意識はそこには集中しない。むしろ『何をしたところで、形勢を変えることはできない』
そんな敗北感のみが、私を強く支配していた。
このトラブルに見舞われ、もうじき丸一年になる。この問題に支配し続けられてきた一年だった。
『決定的に判断・対応を間違えた』と、刻印されていることがある。言い出せばきりがない。が、
ケアマネ(居宅)・包括・その他の相談窓口、そして弁護士。これら社会に揃えられた<駒>を
どれ一つ有効に機能させることができずにいる。そんな己の無力さ無能さが、ただ恨めしかった。
義仲よ このジャケットは軽すぎて