昭和2年生まれ、農家7人兄弟姉妹の真ん中、上からも下からも4番目。幼い弟妹の子守に
手を取られながら『こんな自分でもこれなら続けていけるかも』と女学校(中学生)の頃に
試してみたのが俳句だったのだと。そして農家ではないが、これまた6人兄弟姉妹の3番目
公務員の父と結婚。互いの親からの支援も乏しく、アパート一間の新婚生活が始まることに。
家事に子育てにと「俳句~」どころではない時代も経て、それでも愚直に執拗に関わり続け、
もはや「終生の生業」というべきか、冊子を発行したり、ささやかながら句会を主催したり、
この翌年になれば、遂に米寿を迎えるところまできたのである。そんな母が右腿痛再発以来、
丸1年、句会はおろか作句自体頓挫していた状況で「さくらさくら~」は久方ぶりに閃いた
一句jとなった。
「多くの人が読んでくれると~」などと母から担がれ「うん」と合わせはしたが、
これから始めるブログ、デイセンターの体験利用以降は苦情申し立ての経緯から
制度への理解や自身の行動分析など、辛気臭い話題も取り上げていくことになる。
それだけに、これからも各項の心象に合う一句を添える形を作っていけるのなら、
雰囲気に幅を持たせることができるし、何よりすっかり創作から遠ざかっている
母にとっても良い刺激になるのではないかと…。
そこで同様に2項目「要介護認定」もそそくさ原稿を渡し、待ってはみたのだが、
「こうもベッドに縛られている身では、そんな都合よくイメージは湧いてこない」
「俳句を載せたいのなら私の自選集から選べばいい、好きなのを使っていいから」という。
母が趣味にしているとはいえ、これまでは暇な年寄りの遊興のひとつ、位としか考えず、
琴線に触れることなどなかった俳句だった。だが、こんな経緯でブログ一項仕上げる度、
母の自選集をいちいち一から読み直し、心象に添う一句を探し続けることになった。
選んだ俳句の中には現在の私よりも、まだ更に若い年代に詠まれたものも少なくないが、
何とも奇妙な感覚をだった。それらはあたかも、その時代の母がこの先の自分の人生で、
このような境遇が待っていることを潜在的に予感し、俳句に投影させていたかのような…、
そしてそれらが、この目に留まり、記事の最後に添えられるのをまっていたかのような…。
そんな「手前味噌な錯覚」が、袋小路に陥っていた私の意識を徐々にではあるが
解放に向かわせ、このブログ投稿へと移行させていくことになるにはなるのだが…。
社会人となって以降、職務日報を記す程度が席の山だった私は、一文・一段落を
まとめるに逐一推敲を重ねる必要に迫られた。
つまるところ、俳句にしても作文も私の浅学ぶりが如何ほどか、という話であって、
加え、LINE交換からSNSまで ネット上の私の機動力は愚鈍極まりないものがある。
『これはこれで別のストレスになってくるのか…』そんな思いを交錯させながらも、
10日毎の投稿を自らのノルマと課し、ひたすら筆記することに意識を没頭させる。
暫くは、そんな日々が続くことになった。
父母の青田へクラクション一つ