献策

私は母の利用した介護サービスのトラブルで、その代理人として苦情申し立てや

事後交渉に翻弄された経緯をこの記事の中で回想してきた。それらを総括しつつ、

改めて、要介護者本人やその代理人に「契約」を求める現行制度の根幹の有様に

違和感を捨てきれずにいる。

 

契約書には、苦情対応の在り方や、その先の相談窓口の宛先、訴訟を起こす場合の

管轄裁判所など細々とした記載がある。それに署名・捺印し「契約」を交わすとは、

止むを得ず申し立てる苦情も、それで埒が明かない場合の各窓口への相談も裁判も、

「その業者との関係は基本的に全て自己責任で完結させます」そう了解したという

ことになってしまうからだ。

 

国(政治)は皆保険としての保険料納付の義務を国民に課す以上、逆に要介護認定を

受けた人達に対しては、確実な介護体制を整える義務を負うことになるはずであるが…。

 

事業認可を求めてくる者達が本当に利用者の安全を疎かにしない組織なのかどうか。

私達に確約できる程、綿密な審査を重ねた上で役所が判断を下せている訳ではない。

その一方、行政が一定の割合での粗悪業者の紛れ込みを想定していないはずもなく、

だからこそ、利用者の安全を担保するのに、誠実な苦情対応の履行や相談窓口等の

内容を入れ込んだ「契約」を交わせ、という話になってくる。

 

そして実際に、その業者が交わした契約事項を誠実に履行しない組織だったとなれば、

利用者は指定の相談窓口に実情を訴え、場合によっては事後交渉のサポートや仲介を

求めることにもなる。だが、ケアマネージャーも含め相談員の対応とくれば、業者に

「誠実な対応を」と口添えする程度で、最終的には「話し合いは当事者同士で」との

自己責任論を持ち出され、それ以上の支援は期待できないことを私は自身で体験した。

 


老後、自分の代理人がどこまで親身に寄り添ってくれるかは、人により事情は様々。

形ばかりの代理人しか望めない人が、如何にぞんざいに扱われることになろうとも、

もはや、それ自体が自己責任という話で片付けられてしまうことになるのだ。

 

そのような状況も鑑み私は兼ねてより、ケアマネージャーこそが介護サービスに関し、

利用者から苦情や不満が出た場合、その代弁や後見役を担うべきと考えていたのだが、

近年となり、そのケアマネージャーの成り手不足が深刻化しているという話さえある。

平成30年より、その質を向上を目的に受験資格が厳格化されたこと。更には、多忙な

業務量に対しての報酬が見合っていない業種として敬遠されているのだという。

 

質向上や待遇改善は志を持つケアマネージャーの中からも上がってはいるようだが、

現状、一人のケアマネージャーの受け持ち人数の上限は「居宅ケアマネ」で35人。

老人ホームなど所属の「施設ケアマネ」では100人まで、とされといるということ。

ケアマネージャーなる所業、地域包括ケアシステム下にあっての「事業者」として、

これ程の担当人数を抱えなければ成り立たない建て付けのまま、少々の待遇改善が

実現したとて一体どこまでの質向上を期待できるものなのだろうか…。

 

「不要論」さえ囁かれるケアマネージャーも実のところ、我々利用者にとっては

契約を必要とされるサービス提供業者と同じ介護事業者であることに違いはない。

ケアマネージャーとサービス提供業者、互いに効率良く業務を処理していくため、

不都合は見ないよう慣れ合っていく。現行の地域包括ケアシステム下においては

さほど珍しくない現象と割り切るしかない現実が実際にある。

 

国家財政逼迫が叫ばれ、高齢者の社会保障費増額など既に限界との論調がはびこる中、

私も含め、頼れる家族や支援者を持てないまま老後を迎える人達が今後も増え続ける。

現体制のまま、そんな老人が要介護認定という現実を突き付けられ、その時になって

置かれた悲観的現実に慌ててみても、もはや後の祭りということにしかならない。

 

老いさらばえ何もかもが不自由となり、何かを訴えてもどうせ聞き届けられないと、

封じ込められ切り捨てられてはいないか。人としての権利と尊厳は守られているか。

仕事の効率や採算などに捕らわれず監督する「福祉公務員」必要性が今の制度から

抜け落ちていることを、その現実にあっても見て見ぬふりをしているということを、

私達はもっと直視する必要があるのではないか。

 

あの時、相談員から諭された「早く忘れて、生活を立て直すべき」理不尽さばかりか、

己の無力さと虚しさしか残らないような体験。その様なことも含め、橋折ることなく

少しずつでも、この回想録に記していこうと、今改め思い直しているところである。