パーキンソン病発症からおよそ3年、母も女性の平均寿命を超え、満87。
そして、感染症による緊急入院。そうなって次に聞かれることと言えば、
延命治療の可否について、となってくる。
今回の感染症入院での治療の選択について聞かれている訳ではない。
自発呼吸すら困難になったり、意識の回復も見込めなくなった場合、
酸素や栄養分の注入を人工的に続けてまで延命を希望するのか否か、
母本人とその確認は済んでいるのかと。
実は、延命治療は先のレスパイト入院でも聞かれていたし、この度の
緊急入院でも私は、その意思を未だ母から取れていないと理由をつけ、
「折を見て確かめておきます」と曖昧な返事しか返していない。
だが延命治療などは、たとえ我事の立場として問われたとしても、
それを「希望する」という選択は微塵ほどもなく、その価値観は
両親も同様のこととの認識を私は持っている。
リハビリ・デイの事業所選びが失敗に終わったことを皮切りに、
レスパイト入院もせん妄に見舞われ、心身の安定にも良かれと
取り入れてきたことが逆効果の連鎖にしかならなかった。故に
母は、こうなってしまうまでの二年間の殆どをベッドに縛られ
過ごしてきたこといなる。
「もう、私は足手まといにしかなっていない」母はそう言いながらも、
主催してきた俳句の会を完全に放置してしまっていることを気に掛け、
病を抱えながらも何とか体調を安定させ、仲間の待つ場所に戻りたい。
その思いだけで、どうにか持ちこたえていたのだが、積もりに積もる
もどかしさを母自身が処理できなくなった時、母から溢れ出る怨念の
言葉を私は聞いていなければならない。
こんな負の連鎖が続く中、延命措置の是非を問われることになった。
それは母の終末云々というよりも、自分の選択してきたことに対し、
意味などなかったのだと、引導を渡されたかのような抵抗感があり
「延命治療は望みません」と即答することができなかったのだ。
更に言うと、実家での介護生活も丸二年超となり、いつの間にか
私自身が経済的な側面まで含め、諸々と両親に依存し始めていて、
その生活に終焉を告げられることへの無意識の拒絶というものが、
同時にあったことも認めなければならないのではと、今更ながら、
思い返しているところなのである…。
この度は、こんな悶々とした自問を繰り返しながらの構成となり、
筆を進めて行くことが中々に難儀な回想であった。
月光に小銭をこぼす焼芋屋